さっそく旅行に出かけてます。
海無し県民は旨い魚に飢えている、ということで北陸へ。
激動の世を生き抜き加賀百万石を創った男
さて、国宝に指定されている瑞龍寺。
ここは、初代加賀藩主の前田利長を弔うために建てられた場所だ。
加賀藩といえば前田家。前田家といえば前田利家のイメージが強い。
しかし、利長はただの2世ではない秀れた武将だった。
瑞龍寺の場所はここ。
左右対称のつくりや、隅々までぴしっと整った佇まいがいかにも禅宗の寺であることを思わせる。
さて、利長に話を戻そう。どうせ瑞龍寺のレポートは溢れている。
利長は、尾張で幼少期を過ごすが、父 利家が戦の功績により秀吉から加賀国の領地を与えられたことで北陸にやってきた。
その後も順調に秀吉の下で手柄を立てながら領地を拡大していった前田家。
父 利家も五大老の一人として、徳川家康のけん制役も任されるほどとなった。
そんな利家も亡くなり、利長が2代目の加賀前田家当主となる。
元々、豊臣政権内では派閥争いがたびたび起きており、それを仲裁していたのが利家だったとされる。
そんな利家が亡くなったことでその争いは激化する。
前田家が五大老の中で家康の対抗馬的な位置づけだったこともあり、利長は「家康の野郎をやっちまってくだせえ」勢の頭取的立ち位置にされてしまう。
そんな状況を家康は早速策略に利用し出す。
ある日突然家康がこんなことを言い出したのだ。
家康「利長よ。俺に謀反しようとしたらしいな。ちょっと加賀征伐しに行っちゃおうかなあ」
もちろん利長にとっては寝耳に水なのだが、これに前田家は大混乱。
抗戦派と回避派に家臣団は真っ二つ。元々が尾張時代から仕える組、加賀時代から仕える組というグループも存在していたこともあり、利長は家臣団をまとめ上げることにも苦労することとなったという。
それに加えて、家康に抵抗するかどうするかという日本史の中でも随一の政治判断をすることとなった。
結果、利長は家臣団をまとめ上げ、家康に対しても自らの母をも人質として江戸に送る等の必死の外交努力で交戦を回避した。
その後の加賀藩の繁栄はもはや語るまい。
激動の世を生き抜いた利長は、晩年は富山に移り、高岡の町を整えていった。
それが今の高岡の町の礎となっている。
禅宗独特の静寂さと厳かさ
そんな利長の生き様を知れば、ここ高岡に菩提寺をつくってあげたくもなるというのが子の性分だろう。といっても、瑞龍寺を整備した利常は利長の異母弟だ。息子がいなかった利長は、利常を養子にしたらしい。
瑞龍寺の特徴は、やはりぐるっと本堂を取り囲む回廊や大きな山門だ。
これらの建物群を伽藍と呼ぶようだが、これが国宝に指定されている。
丁度夕日が差し込み、鍵盤のような光と影のコントラストができる。
福井の永平寺を思い出すが、あちらよりもより洗練とされた静けさや厳かさを感じる。
永平寺はなんというかこう…もっと荒々しい感じがあった。
入り口にいたお坊さんが、ミニツアーをしてくれたのだが
これまた熱いお坊さんでもはやお説法を頂いてしまった。
「これからいろいろな大変なこともあると思うけど、私たちがもう少し全力で走るから、若い皆さんも全力で走って欲しい。そして、しっかりバトンを渡すから。
うまくバトンパスするためには、次の走者も走っててくれないとダメですよね?
だから、お願いしますよ!」
「私は陸上やってたのでつい例えてしまうんです」
そうお坊さんは笑っていた。私の父とほぼ同世代だろう。
見ず知らずのふらっと来た観光客にこうして熱く語って頂けたのには驚いたが、最近仕事で落ち込むこともあった私にはちょっと元気を分けて頂いた気がした。
この美しさにはもちろんなのだが、このお坊さんのお話も相まって忘れられないお寺となった。
富山県はもっとこの瑞龍寺を売り出して欲しい。よく見る海王丸パークよりもずっと心に残るぞ。
いや、海王丸パークも綺麗だけども。
でも、ぜひとも富山にお越しの際はお立ち寄りくださいませ。きっと心洗われますぞ。
しばらく北陸・中部地方の記事が続きますのでお楽しみに。
では、本日はここまで。