そういえば、ブログ開設当初に本の紹介もするとかなんとか言ってたな…と思い出した。不定期となるであろうが、「回顧文庫」として本の概要やレビューなどなどを書いていこうと思う。
記念すべき第1回は、(著)斎藤誠(2015)の『震災復興の政治経済学~津波被災と原発危機の分離と交錯~』(日本評論社)を振り返る。
概要
本書は、2011年に起こった東日本大震災発生後の復興政策決定プロセス、福島第一原子力発電所事故の対応・意思決定プロセスを客観的データに基づき分析している。震災当時私は中学生だったが、「未曽有」「甚大」「想定外」等の漠然としたイメージを持っていた。このような未曽有の災害では、政府や原発対応を行った東電が行った意思決定にも致し方がない所があっても仕方ないのではないかと考えていたのである。しかし、著者は可能な限り客観的なデータを用いながら、「基本的」なことを怠らなければ、誤った意思決定を行うことはなかったのではないかと鋭く指摘する。「基本的」なこととは、「バイアスをかけずに客観的なエビデンスを見つめ、考え、用いること」と「手順を守ること」であった…。
出会いとエピローグ
仕事帰りにブックオフへ立ち寄ると200円ほどでこの本が置かれていた。
経済学部の中でも公共政策や、地方財政といった政治経済寄りの勉強をしていた私は、「政治経済学」という名のついた本にはどうしても惹きつけられてしまうのであった。
その中でも、私は地方財政や地方自治、そしてそれにまつわる意思決定がどのように行われるかというテーマが大好物だった。卒論の主題を『今後の基礎自治体における意思決定のあり方』とするくらい大好物。
そして、中学生の頃に起きた東日本大震災は衝撃的だった。当時授業中だった私は、初めて訓練通りに机の下に潜るという「実戦」を経験した。家に帰りテレビで見たのは、水の塊が街を飲み込んでいく映像と政府を含めた大人たちの大混乱だった。
また数日間余震が続き、原発の水素爆発の映像や、市原の石油コンビナート火災に伴うデマ等、今まで経験したことがない雰囲気が千葉にもあった。
以上のような状況の中では、「とにかく被災地を助けなければ」という気持ちが少なからずあった。遠く離れた我々ですら大変なのだから、とにかくお金や物資を送る必要がある!そういった雰囲気が日本中にあったように思う。
そして、それは政策決定者の中にも存在していたのだろうと本書を読み感じた。しかし、政策を考える上では「Cool head,but warm heart」を忘れてはならないという大学時代の恩師の言葉が蘇る。
本書の主張
さて、長くなったがこの本は以下の二点を主張している。
・震災復興政策は過大なものであったこと。
・福島第一原発事故は「想定外」な事態ではなく、当初より想定されていた手順を踏んでいれば防げた可能性が高いこと。
今回は過大な復興政策について軽く要約をしてみたい。
行き過ぎた復興政策
復興政策に必要な予算は、大まかにいえば①規模・使い道②国と地方の費用分担③財源の3つを決め、内閣によって策定される。この策定には、被災地のストック被害額(その地域にある建物やライフライン等の被害額)の推計が重要な役割を持ったとされる。
なぜならば、阪神淡路大震災では、被災地のストック被害額が復興予算全体の規模とほぼ同じだったためである。しかし、この内閣府によるストック被害額の推計に大きな問題があった。被害額の推計が過大で行き過ぎたものだったのだ。
では、なぜそうなってしまったのだろうか?
・被害額の過大推計となった原因を考える3つの論点
著者は、復興支援調査等の震災後に収集したデータを用いて独自に被害額の推計を行っている。内閣府の推計は約10兆円~20兆円だが、著者の推計では約4兆円~6.5兆円であったことをふまえ、以下のように3つの論点を主張している。
①今般の大津波による建物被害規模は、阪神淡路大震災による建物被害規模よりもはるかに甚大であると想定してしまった。
②津波の被害を受けていない地域においても、阪神淡路大震災と同程度の建物被害を想定してしまった。
③被災三県の津波被災市町村の建物損壊率について、過大な想定をしてしまった。
斎藤(2015) P73 L1~4
①~③は、いずれも震災直後の調査等から被害額の想定があまりにも過大と判断可能であったはずと鋭く指摘している。
以上のように過大な予算規模となってしまった背景には、震災名を東日本大震災と閣議決定したことに代表されるように、政府が実態よりも大きく被害を捉えていた背景があるのではないかと述べている。また、当時の議事録などからもそうしたことが伺えるという。
感想
過大な復興政策にまつわる話は、とても興味深かった。
内閣府までも「きっとこれほど甚大なはずであろう」という前提のもとにデータを扱った可能性があるのだ。
TVなどで繰り返し津波被害などの様子を見ていれば、仮に著者と同程度の規模と推計できたとしても「そんなはずはない」と考えてしまうのかもしれない。しかし、そのようなバイアスは捨てて客観的にデータを見つめなければならないだろう。
とはいっても、彼らも国の機関として統計を扱う以上は、こんな素人に言われるまでもなく認識しているはずだ。問題は、なぜその後も予算規模の見直しが図られなかったのかであろう。震災以前から、財政再建の話題はホットであったにも関わらず…。
やはり日本にもIFIと呼ばれるような独立財政機関の設置が必要なのかもしれない。
官僚や政治家をプレイヤーに据え、ここから更に「なぜそうなったのか?」を深堀していくのはとても面白そうだ。
データを集めることは難しそうだが、復興政策の意思決定について実証分析がされている論文などもあれば本書の強力な証拠となりそうだ。つまり、どのような要因が予算策定や政策決定に影響を与えているのか、を明らかにすることができればより面白くなる予感だ。
しかし、著者は膨大な資料をかき集め、選りすぐり、なるべく客観的なデータに基づいて論理展開を進めており、震災復興の研究に対する熱意がひしひしと伝わってきた。
原発関連では、非常に専門的なことまで書かれており、その情熱には脱帽してしまった。そして、やはり政府といえども人間の集団であり、政策は人間の意思決定によってなされていることを良い意味でも悪い意味でも、改めて思い知らされた1冊だった。
まもなく10年が経過する東日本大震災。
本当にあの時の選択は正しかったのか?と冷静に復興政策の是非を考えることは、「あの時」の空気や雰囲気を知っている我々がやらねばならないことかもしれない。
機会があればぜひご一読を。
では、本日はここまで。