終戦から78年が経った8月。
東京に残る戦火の跡をこの目で見ておきたくなった。
東京では地上戦こそ行われなかったが、焼夷弾による爆撃の悲劇は言わずもがな。
今の東京に確かに残る悲劇の痕跡をしっかり目に焼き付けたい。
黒く焼けた跡が残る
1944年11月頃から本格的になっていく東京への空襲。
当初は中島飛行機等の軍需工場を狙っての爆撃だったが、国民の戦意喪失を狙い一般家屋を目標とした爆撃にシフトしていく。
その中でも1945年3月10日の本所や浅草、深川などの下町を目標にした空襲は、10万人近くが亡くなる悲劇となった。
下町が目標にされたのは、木造家屋が密集していて”よく燃え広がる”からだった。
アメリカ軍が江戸の大火や、関東大震災の火災を研究した結論だった。
アメリカ軍の目論見通り火の海となった東京だが、その中でもこの言問橋は浅草側(写真手前側)から逃げる人と、向島側(写真奥側)から逃げる人でごった返し身動きが取れないまま焼かれていくという悲劇が起きた。
言問橋を訪れた約2週間後に関東大震災のNHKスペシャルを観ていたのだが、震災当時でも似たようなケースが起きていたことが紹介されていた。
この隅田川に掛かる橋たちは、関東大震災の復興事業として架けられた橋たちだ。そんな橋の上で再び悲劇が起きてしまうという虚しさ。
歴史から見てもやはり東京は火災に弱い。
それは、きっと現代においても根本的には変わっていないだろう。当時よりは鉄筋コンクリートの建物が圧倒的に増えたとはいえ、東京都のシミュレーションでもこの下町地域と山の手側は多くの建物の全壊消失が想定されているという。
これらの地域は、大空襲で焼かれた地域とも重なる。
交通網もマヒした地震後の東京でどうやって火災から逃げられるか…私も空襲時の人々と同じように逃げ惑うしかないのではとも不安に思う。
そんなことを考えながら隅田川沿いを歩いていると言問橋に到着。
ふと柱を見上げると真っ黒に焦げている。そう今回見に来たのはまさにこれだ。
空襲当時、橋の上には埋め尽くすほどの人や家財道具等で溢れていた。
そこに火の粉が降りかかり、次々と燃えだしたという。
ここも黒焦げている。
すぐ近くには慰霊碑もある。
欄干の根元にあった縁石が慰霊碑の隣に置かれている。
溝に欄干が差し込まれていたのだろう。表面部が黒焦げている。
たくさんの千羽鶴が慰霊碑隣にかけられていた。
今年のものだろうか。一番手前の物はまだ色鮮やかだ。
見慣れた景色のすぐ足元には、こうした戦争の悲劇の跡が確実に残っている。
そして、何より自分と変わらない一般市民の多くの犠牲があったことを如実に痛感させられて心が苦しい。
こうした歴史を繰り返さないよう、大人の一人として選択を間違えないよう生きていかねばとたまには真面目なことを思うのだった。
浅草まで歩いて老舗のかつ丼を食らう
さて、お腹が減った。どうせなら仲見世の方まで歩いて何か食べよう。
ということで前々から目をつけていたこちらへ。
創業は明治40年。店内にはたくさんの芸人さんとの写真が飾られており、地元に愛されているお店であることが良く分かる。
店内に入ると「ワンピープル?」と聞かれて「あ、1人です」とすかさず日本語で返してしまった。
「ごめんね!」と謝られてしまったが、そうなってしまうのはしょうがないなと思うほど店内は外国人観光客で半分以上席が埋まっていた。
インバウンド万歳!
私はかつ丼で貢献。
これがまた濃いめの醤油の風味と、少しつゆだくな感じでめちゃくちゃ旨い。
お味噌汁とおしんこもついて850円だったかな。
たんまりと汗をかいた後にはたまらない定食だ。
こうして好きなものを存分に食べられる現代になおさら感謝してやまない。
これからもお腹が減ったらふらっとかつ丼を食べて幸せを感じられる平和な生活が続くようにしていかねばな。
あ、でも次はもつ煮定食食べたい。
では、本日はここまで。