ごみと青い岩

東向島(旧玉の井)周辺で”赤線”の残り香を探す

 

先月の中で綴った足助の町並み。その中でカフェー建築というのをご紹介した。

blue-rock53.hatenablog.com

 

終戦後から1958年に売春防止法が施行されるまでの間、全国にいくつか存在していた赤線地帯。

吉原に代表されるような遊郭等の公娼制度がGHQによって廃止された後、あくまで店員と客の自由恋愛の元という建前で黙認されることで成立した「赤線地帯」。

 

そんな赤線地帯の中でも有名なのは、玉の井の名前で知られる現在の東向島駅周辺。

今でも、タイル張りやモダン建築風な装飾(丸柱やカーブ状の装飾)や、出入り口が2つある等、独特な雰囲気を纏うカフェー建築が残る。

 

今回は、前々から行ってみたいと思っていた赤線の残り香探しに向かった。

 

まさに”迷宮”の如く入り組んだ町並み

東武スカイツリーライン東向島駅に到着し、早速散策を開始。

一本路地に入ると小さな商店も多く、ついつい気になる。

駅名や住所名も「東向島」だが、未だに玉の井の地名は地元住民に親しまれているようで、駅の表示にも「旧玉の井」の表記がされているほど。

何だか早速この質屋も一階のタイル張り調の壁と、二階の窓の雰囲気が怪しさを感じさせる。

線路沿いに歩くと、いろは通りという道に出る。ここをしばらく進み…

交番の左側の道に進んでいくと当時のカフェーが立ち並んだメインストリート。

そもそも玉の井は、元々浅草方面にあった銘酒屋(居酒屋を装いひそかに売春をさせていた店)が、関東大震災後に移ってきたところから私娼街としての歴史が始まった。

 

戦後は東京大空襲で焼失し、少し離れた鳩の街にメインが移ったようだが、未だに現役時代の建物が残っている。ということで、早速歩いていると遭遇。この窓の装飾はそうだろう。

ちなみに、作家の永井荷風がこの辺りに入り浸っていたのは有名で、濹東綺譚という小説で詳細にこの街の様子を綴っているらしい。その中でこの街を「迷宮」と称したのだという。

 

確かに細い路地がいくつもあり、少し入ると自分がどこの方向に向かっているのか分からなくなってしまう。大きな通りでもこれくらいの細さだ。

あいまにはこういったトタンの建物も残り、ここが昭和の雰囲気を色濃く残す下町であることを実感させられる。

 

目にできる限界点か

ふらふらと歩いているとこれまたオーラを感じる建物と出会う。入り口上のカーブしたひさしなど、これはカフェー建築でだろうと思う。

だが、よく見ると一階が傾いている。これはいつ取り壊されてもおかしくない…。

ここへ来る前に色々とブログを徘徊して下調べをしたりもしたのだが、年々とカフェー建築が建て替え等で姿を消したという報告が増えていた。

それもそのはずで戦後に建てられたとしても80年ほどになってしまうのだ。

 

そろそろ自分の目で見れるのは、限界が近づいているといっても過言ではないと思う。

 

そんなことを思いながら、見上げたり路地に入りこんだりしながら必死に痕跡を探してみる。個人宅に変わりながらも予想以上に残っている。

そして、これは有名なカフェー建築。いやはやこれは凄い。完璧だろ…。

こちらもそうだろうか。

こうしたアングラな歴史を探索するのも非常に面白い。東京という首都だからこそのこうした私娼街の隆盛があったのだろう。人が集まれば欲望も集まり、濃度も上がる。

 

しかし、それもまた時代の移ろいとともに姿を変えて消していく。アングラな世界だったからこそ人目にもあまり触れられず、ひっそりと消えていく。そんな儚さが、カフェー建築に惹かれてしまう理由かもしれない。

 

売春防止法施行後の赤線の様子が、NHKアーカイブに残っていた。

www.nhk.or.jp

 

吉原周辺にもこうした赤線の名残がまだあるようで、建物が残っているうちにそちらにも足を運びたい。

 

町中華の名店 興華楼へ

もうお店の外見で入ると決めたといっても過言ではない。この辺りでは有名らしい興華楼さんへ。

外の看板には手書きで日替わりランチの文字が。店内には凄まじい数のメニューがあったが、もうこの看板のおかげで注文は迷わなかった。

まずは中華スープが出てくる。

ほどなくしてカツカレーが登場。いやもう最高だよこれ。町中華のカレーってこういう感じなんだよね。

 

中華スープが効いていて、さっぱりめだけど旨味がしっかり残る。一般的には大盛にカテゴリーされそうな量もある。最高だ。


今回で出会えなかったカフェー建築を探しに来たときは、またこちらに立ち寄りたい。

 

では、本日はここまで。