ごみと青い岩

初めて祖父を亡くした

 

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今回は自身の整理のため、区切りをつけたく書き殴ってしまった。

長文駄文ご容赦頂きたい。

 

でも、私のように祖父母が身近な人には少しだけお読みいただけると何かご不幸があった際には、私のように後悔しないかもしれない。

 

 

 

 

突然の別れ

ごく普通の平日の夜、私はスーパー銭湯のベンチに座り、瓶牛乳を飲みながらスマホをいじっていた。

 

「おじいちゃんが危ないかもしれない」

 

父からそんなラインが飛んできた。

手術した足の血管の調子が悪く入院していた祖父が、急に肺炎や心不全を併発して危険な状態となったようだ。

祖父はここ数年、心臓の手術やら何やら色々と病院にお世話になっていた。

故にそんな話はここ数年の間に何度かあった。

 

しかし、電話越しに聞く父の声は、今まであまり聞いたことのない神妙さを持っていた。

「この数日が峠」という言葉と、もしもに備えて喪服の準備をしておけ、という業務連絡を受けて電話を切った。

 

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祖父も若い頃は北アルプスを中心に登山を楽しんだ

 

そんなことになりながら、会いに行けば毎度の手術や入院での武勇伝を誇らしげに語るのが祖父の常だった。

だから父との電話を終えた後も、患者の身分だというのに、まるでカルテのごとく事細かに手術の内容を記したメモを見せながら、「こんな手術も乗り越えたぞ」と無駄に誇らしげに自慢している姿が容易に想像できた。

 

少しの心配はありつつも、瓶牛乳の最後の一口を飲み干しながら、明日の仕事のことを考えていた。

 

 

だがその2日後、祖父は亡くなった。

 

 

昼休み直前の会議中に父から電話が掛かってきた。

「ダメだったよ」

「そっか…またこの後のこと分かったら連絡して」

 

手短に電話を済ませた後、トイレの個室に入りながら呆然としていた。

しばらくして、久しぶりにボロボロと涙が流れ出した。

 

午後と次の日は、なるべく祖父のことは考えないように無駄に馬力を上げて仕事をこなした。

 

 

残された者のための区切り 

 

私の祖父母は、父方も母方も揃って健在だったため、本当に身近な親族の葬式は初めてだった。

めんどくさがり屋で形式ばったことが大嫌いだった祖父の意向もあり、無宗教葬で行われ、お経も無ければ戒名すら無い。

 

通夜の前の納棺式。私は初めて祖父の亡骸と対面した。

納棺師の方々のお化粧の賜物で、ただ昼寝をしているかのような姿だった。

今にも「何をそんなにジロジロ見てるんだ」と起き上がってきそうだ。

 

そんな話を祖母をはじめ、家族みんなが「祖父だったらこう言うはず」という話をし出す。みんなそうでもしないと平静でいられないのだ。

 

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通夜や告別式の中では、お経の代わりに祖父が好きだった曲を選び、スタッフの方がピアノで弾き語ってくれる。

野球の巨人ファンだった祖父のために、応援歌の「闘魂込めて」も流れる。最初はクスっとしてしまったのに、いつしか涙が止まらなくなっていた。

 

祖父の家に行けば必ず野球中継が流れていて、東京ドームや千葉のマリンスタジアムに巨人戦を観戦しに行ったりもした。

もう「俺が原に電話してやる」という口癖も聞けない。嬉しそうにオレンジタオルを振る姿も見ることはできない。

 

でも、きっと最後にこの曲を聞けて喜んでいるに違いない。

 

式も済んだ後は、みんなで花を棺の中に入れ、出棺をし火葬場へ向かう。

 

 火葬場に向かう道中は、祖父母の家の前を通りながら、見慣れた景色が広がる。たぶんこの時一番涙が出た。

 

祖父は、夕方になると必ず週刊誌やら雑誌やらをコンビニへ買いに行く。

子供の頃は時々それについていき、お菓子を買ってもらうという乞食っぷりを発揮したものだ。

学校はどうだ?最近どこに行った?そんな他愛もない会話しかしていない気がするが、そんな会話でも断片的に思い出し、涙が止まらない。

 

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私がこの手のものが大好きなのも祖父の影響。棺にも戦史関係の本が入れられた。

 

火葬場に着き、最後の見送りをする。もうこの後は祖父の姿を見ることはできない。

棺にそっと手をあて、しばらくの間撫でていた。

 

しばらく待った後、骨となって祖父は帰ってきた。

祖母の「あら、こんな姿になってしまって」という慈愛に満ちながらも、やはり無念そうな顔は忘れることができない。

 

とはいえ、骨壺とともに祖父母の家へ帰ってくると、一家そろって少しほっとしたのが分かった。「いなくなってしまったのだ」という喪失感はあるにせよ、どこか祖父の死を受け入れ、一区切りができた気がした。

 

葬式というのは、残された者のためにあるのだと初めて学んだ。

 

 

悔いても悔いきれぬ思い

 

私の家は、両親方どちらの祖父母の家も近く、週末になるとよく遊びに行った。

社会人になってからも、数か月に一回は会っていたのだが、ここ最近はコロナを高齢者にうつしては大変だと遠慮していた。

 

だから、最後に祖父と会ったのは正月だった。

あんなに頻繁に会っていたのに、半年以上も話さないまま、最後を看取ることすら出来ずに別れることとなってしまった。

 

 コロナといえど、会える時に会おう。

 

もちろん感染症対策はして。電話でもいいし。

 

 

祖父も車は大好きで、ケンメリ スカイラインに乗っていたことをよく自慢していた。

故に、私が自動車業界で働くことも大いに喜び、会うたびに仕事のことを色々聞いてきた。

 社会人も2年目になり、任される仕事の量も質も増えた。その分色々と話すこともあった。きっと祖父が聞きたいこともたくさんあっただろう。

 

web.motormagazine.co.jp

 

 

祖父は、世界中の至るところに飛び回った商社マンだった。

いつも子どものようにキラキラした目で、嬉しそうに仕事の思い出話を聞かせてくれた。

 

日本独自ともいわれる総合商社の一兵として、世界を、時代を切り拓いてきたんだという自負を持っていた。

しかし、そこには俺ってすげえだろ的な嫌味な自慢は全くなくて、

「こんなくだらないことがあって、こんな笑い話があって、でもその結果こんなことができた。」といった話をたくさん聞かせてくれた。

 

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お台場のメガウェブにも一緒に行き、旧車登場当時の思い出話をしてくれたり

 

これはきっと私の人生にも大きな影響与えている。

「どうせ仕事をするなら、楽しく、引退した後にもこうして自分の仕事に誇りを持ちたい」そう自然に思わせたのは、祖父からこんな話を常に聞いていたからだろう。

 

だから、私も「仕事でこんなこともあるけど、楽しんでるよ」ともっと伝えたかった。

話したかった。電話だけでも、もっとしておくべきだった。

 

 

また正月に話をしよう。

そう思っていたら、直接話せる機会は二度となくなってしまった。

 

コロナといえど、会える時には会い、話せるときには話したほうが良い。

何度悔いても悔いきれない。

 

葬式が終わってもう1週間になろうとしているのに、未だに画面が涙で霞んでしまう。

 

とりあえず、墓前で祖父に自慢できるよう、全力で生きよう。仕事に限らず。

そう思うようにしている。

人はこうして死を受け入れて、学んでいくのだろうか。

 

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あ、コペン買ったことは自慢しておくべきだったな。今度屋根を開けて見せびらかしに行こう。

 

長文駄文にお付き合いいただき、ありがとうございました。

 

 

では、本日はここまで。