「國王神社」という文字に惹かれてグ―グルマップでピンを立てておいた。
前回のブログで一言主神社をご紹介したが、この國王神社はその一言主神社から車で15分ほどのところにある。
名前だけではないその魅力を感じてきた。
グーグルマップで気になったのは、名前だけでなくレビュー数の多さもあった。
一見するとよくある地域の小さな神社という雰囲気なのだが、340件ものレビュー数を誇る。
なぜそんなに人気なのかというと、ここは平将門を祀り、さらには平将門の終焉の地と謳われているからだった。
これは気になる。
場所はこちら。国道から少し脇道を入ったところにある。
駐車場は5台ほど停められそうなスペースがある。
拝殿のすぐ隣に駐車スペースはある。
車を降りるとすぐに茅葺屋根の拝殿とご対面。やはり茅葺屋根の拝殿は美しい。
平将門といえば、平将門の乱を起こした人物で朝廷の敵というイメージが強い。
しかし、将門が乱を起こした時代は、朝廷では藤原氏がやりたい放題、地方も朝廷から派遣された国司がやりたい放題。
将門自身も京へ上がって要職を目指すも、藤原氏が独占する状況下では挫折せざるをえなかったという過去もあった。
そんな中地元の千葉県佐倉へ戻るが、今度は叔父に父の領土も奪われていた。
そこで、ここ茨城を本拠地に年貢を軽くしたりといった善政で地元民の信頼を得ていった。
しかし、それが気に入らない叔父の国香は将門を襲う。
ところがどっこい、返り討ちにされた挙句に打ち取られ、将門の名声がさらに高まってしまった。
以降、将門は破竹の勢いで関東圏の朝廷から派遣された国司を追い出し、関東を制圧してしまった。新たに政治を執り行っていこうとしたところ、朝廷からの討伐軍に討たれて生涯を終える。
首は討ち取られて京都へ送られたが、胴体はここに埋葬されたと伝わる。
時は流れて約30年ほど経ったある日、1人の尼僧がこの地域を訪れる。
将門の最期の地を村人に聞いて回っていたのだが、将門残党狩りを目にしていた住民たちは黙っていた。
ところが、この尼僧は将門の三女だったのだ。将門の親戚という事を知った住民たちは、この現在國王神社がある場所を教えたのだという。
彼女は近くの山林の木で将門像を彫り、それを祀ったことがこの神社の始まりだという。
この由緒を知ると、将門がこの地で慕われていたことがわかるような気がする。
だからこそ、この國王神社がつくられ今に至るまで守られてきたのだろう。
私が参拝していた約30分ほどの間でも2組ほど参拝者が訪れていた。
言葉は悪いが、アクセスも良くない小さな神社にこれだけ人と遭遇するのは珍しい。
レビュー数が多いのも納得だ。
未だに人々を惹きつける平将門の力を目の当たりにしたのだった。
では、本日はここまで。