ここは二代目将軍秀忠が建立した日光東照宮の初代奥社(家康の墓がある場所)拝殿が、三代将軍家光の時代に移築されている場所だ。
なぜここにそんな重要なものを…?
その答えはここ群馬県太田市世良田(せらだ)が、徳川発祥の地と呼ばれる理由にあった。
源氏の名門新田氏と「源氏」として認めてもらいたかった家康
200年以上に及ぶ時代を統治した徳川家。
そのルーツといえば三河の国、今でいえば愛知や静岡では…?
なぜこの群馬の地が徳川発祥の地か。
それは、家康が「俺実は源氏の中でも由緒ある新田家の末裔やで」ドヤァとするためだ。
なぜそんなことをドヤる必要があるかというと、朝廷から征夷大将軍に任命してもらうため。
1566年に家康は松平姓から徳川姓への改姓を朝廷へ申し出る。
元々徳川(得川)は新田氏から派生した姓であり、新田氏は源頼朝のひい爺さんの兄弟の息子から始まった家柄だ。
このリンクの新田氏家系図を見ていただくと分かりやすい。
源頼朝以降、征夷大将軍は源氏が任命されることが基本となっていたことから、家康は源氏の由緒正しき新田氏の流れをくむとアピールしたかったようだ。
とはいえ、いきなり「あ、ども実は新田氏です」とドヤってもいやいや嘘つくんじゃねえよとなる。そこで、新田氏から派生した得川義秀がなんか松平と繋がりありそうという根拠を掴んだ家康は、徳川を名乗ることとなったと考えられているようだ。
実際にこの東照宮のすぐ近くに徳川町がある。
詳しくはこちらのリンクもお読みくだされ。
「なぜ、家康は”徳川”に改名したのか?その理由は?」Web歴史街道
https://shuchi.php.co.jp/rekishikaido/detail/4775
そんな所縁があってか、徳川幕府3代将軍の家光の時代に、日光東照宮から拝殿などが移されることとなった。
屋根の下の彫り込み、色彩がとても美しい。
正直訪れる前まではもっとこじんまりとしていて、全国によくある東照宮の一つだろうと考えていた。
ところが、想像を超える厳かな雰囲気と、立派な社殿、さらに徳川の歴史に非常に大きな意味をもつ地であることを知り、思わずシャッターを切るのをためらってしまった。
という建前パートはこの辺にして、2台のカメラで撮りまくる。
もう夏だなあ。この緑の鮮やかさ。
それにしても、この苔の生え方は素晴らしい。ベスト苔イヤー2020上半期ノミネート!
この紋所が目に入らぬかあ!
さて、そろそろ隣の長楽寺へ行こう。
世良田東照宮の片割れ長楽寺とロマン溢れる開山堂
勝手に徳川発祥にさせられてしまった得川義秀が、鎌倉時代に創建した長楽寺。
家光の時代には日光東照宮から拝殿などが移されてきたが、明治の神仏分離令で世良田東照宮と長楽寺に分離させられたとのこと。

むむ。この奥に何だか朽ちかけた建物があるではないか。
行くか…?
でもきっとこの先はやぶ蚊のハーレムが待っているはず…。
虫よけスプレーはもちろん、かゆみ止めのムヒすら装備していない。それに加えて半袖短パンという、まさに絶好の標的…。
ええい…!合戦じゃあああああ!!!!
ファインダーを覗きながら既に足首に強烈なかゆみを覚えるが、耐える。
しっかり徳川の紋が。しかし、かなり荒れ果てている。
ここは開山堂と呼ばれる場所で、
どうやら長楽寺を開く際に義秀が招いた栄朝禅師の木造が置かれていたようだ。
ここだけ時が止まっている山寺のような雰囲気…。
それなりにローカルな寺社仏閣を巡っているが、ここまで異質な雰囲気を持った建物は珍しい…。落ち武者が扉をガラガラと開けて出てきそう。
訪れる際には冬の時期をお勧めするが、ここの雰囲気はぜひ直接足を運んで頂きたい。
ていうかかゆい…。
柱が曲がっているように見えるが果たして………かゆい…。
滞在時間は約5分ほどだったが約8か所を刺されながらも無事生還。へっ!今日はこのあたりにしといてやる。
かゆくて写真どころではないため、ぽつぽつと帰り始める。
おや、太平洋戦争時の戦死者を弔う慰霊碑か。
これは余った石材…?
徳川と何のゆかりも無さそうな群馬県という勝手なイメージを持っていたが、とんでもない大きな間違いだった。
南北朝の時代以降歴史の表舞台では影が薄くなってしまった新田氏が、数百年の時を経て思わぬ形で家康によってスポットライトが当てられることとなった。
家康は自身の出世のために色々と画策したのだろうが、家康の子どもたち等以降の将軍は純粋な自身の祖先への尊敬の念を持って取り計らってきたような歴史も感じる。
何だかそんな偉人たちの人間臭さを感じる神社であった。
では、本日はここまで。