年末年始は愛知で過ごしていたため、ついに念願の足助の町に行くことができた。
予想外にも明治~昭和初期の雰囲気に触れることができた。
案外こういった場所は少ないため、大満足な訪問となった。
明治~昭和初期の雰囲気を楽しむ
尾張・三河と信州を繋ぐ伊奈街道の中継地の役割を果たしてきた足助。
重要な交易品だった塩を積みかえる拠点でもあったという。
場所はこちら。
実のところ、現地に着くまでは以前に訪れた長野県の奈良井宿のようなイメージを持っていた。
しかし、実際に来てみると江戸時代の雰囲気というよりは、どこか明治や昭和初期のような雰囲気を漂わせていることに驚いた。
東京の明治~昭和初期頃までの街並みの写真で見かけるような、江戸末期の建物と近代の建物が混在した町並みが広がっていた。
1775年に町のほぼ全域を焼き尽くすような大火が発生してからは、建物の外側を漆喰で塗り固める塗籠造りが主流となったとのこと。
確かにどの建物もしっかり軒先まで塗り固められている。
この路地は名所ともなっているようで、観光客がたくさん歩く。
確かにこれは素晴らしい路地だ。この白塗りの壁に囲まれた路地は、令和の時代であることを忘れてしまうような非現実感がある。
路地からメインストリートに戻る。江戸時代まではまさにこの道が伊那街道であり、たくさんの馬や人が行き来していたのだ。
明治以降、道が付け替えられて徐々に人や物の流れから切り離されていった。
しかし、それがこの景観を守ってきた要因であることは間違いないだろう。
カフェー建築との予期せぬ出会い
これは別件で東京のスポットを回って記事にしてみたいと思っていたのだが、予期せず足助の町で出会ってしまったため書き残しておきたい。
カフェー建築というのを耳にされたことはあるだろうか?
政府も半分公認で売春が行われていた地帯のことを指す、いわゆる「赤線」の建物のことだ。公認といっても黙認に近い状態だったため、あくまで「カフェの店員と客との自由恋愛によるもの」という建前が一般的に存在したのだとか。
そのため、「カフェー」だと分からせ呼び込めるようにタイルや柱や装飾に曲線を入れたりといった独特な雰囲気を持つようになった。
というのをいつか自分の目でも見に行こうと下調べをしていた矢先、足助の町でこの建物が目に入った。
小窓の配置からこれはカフェーというよりは花街の名残のように感じたのだが…
その先にこの建物がいた。これは見事にカフェー建築なのではないか…!?
まさかここでそんな出会いがあるとは!!!
東京でも続々と姿を消しているというカフェー建築。
アサヒビールの看板は、カフェーの役目を終えた後に飲食店として活用された名残なのかもしれない。
この窓といい、一階のタイル張りや曲線といい条件は満たしているが果たして…。
↓こちらの個人ブログで一応カフェーであった証言がえられたと記載がある。これくらいしかネット上には情報が無かった。
https://gionchoubu.exblog.jp/32119345/
もう少しこの領域も勉強してみたいものだ。
とまあ本来もっと見るべきところがあったように思うが、今回はそんな見どころ満載な足助の町並みをお伝えした。
ぜひ愛知を訪れた際はお立ち寄りを。
では、本日はここまで。